ひきこもりろん

広告ライターからエンジニアに転職し、現在はYouTuberデビューを目論んでいる「ひきこもり志願者」が日々の妄想を書き散らかすブログ。

【71日目】眼鏡とフェチシズムの日

眼鏡


少し前に友人とフェチシズムについて語り合った。フェチシズムとは、異性の身体の一部や身に着けた物に刺激される異常性欲のことである。

こうして文字に起こすと変態的な響きに聞こえるが、近年では特定のものへの執着を表す意味で使われることが多いだろう。

私と彼は特別仲が良い訳でもないのだが、「眼鏡フェチ」という点においては思想が完全に一致していた。登場人物が漏れなく眼鏡をかけている『ペルソナ4』は、我々にとってのバイブル的な作品と言える。

しかし、眼鏡フェチだからと言って全ての眼鏡に興奮を覚えるかと言われると、まったくそんなことはない。

むしろ実際は眼鏡をかけていなくても良いのだ。「この人の顔にはどんな眼鏡が似合うだろう」「こんなシチュエーションで眼鏡をかけて欲しい」という妄想だけでも幸せになれる。清々しいほどの変態ぶりである。

一体、眼鏡のどこにそんな魅力があるのか。中世の西洋絵画に描かれる眼鏡は、知性・教養の象徴であった。現代社会においても「眼鏡=インテリ」というイメージは色濃く残っている。

しかし一方で、日本の浮世絵などに描かれる眼鏡は、むしろ職人的な細かい手仕事の象徴であったという。方向性は違うものの、眼鏡は人の印象を左右する「何か」があるのだ。

ちなみに私と友人はウェリントンを特に好んでいる。クラーク・ケントのようにダンディな男性に似合うのは言うまでもないが、過激な性格の女性があえてウェリントンを使用していたりすると、そのギャップに悶えてしまう。

或いは、普段から隙がなく冷静沈着な人物が、眼鏡を外した時に柔和な表情を見せたりすると、我々の心は鷲掴みである。その眼鏡のヒンジが緩んでいて、テンプルがぶらぶら揺れていたりすれば、「あ。この人も人間らしいところがあるんだな……」と一層の親近感を抱くことだろう。人の心の距離まで近付けてくれるとは、まったく眼鏡様々である。

もちろん私も私生活では眼鏡を愛用しているのだが、昨夜コンビニに出かけた際に何の前触れもなくブリッジが真っ二つになった。ファミチキを用意していた店員さんも、わずか数秒の間で裸眼になった私を見て目を丸くしていた。恥ずかしかった。

 

※追記1

店員さんはハーフリムの眼鏡で、なかなかのハンサムだった。私の砕けた眼鏡をどうするべきか迷っている様子だったので、お近づきの印として半分を渡すことにした。もちろん嘘だ。

 

※追記2

私の上司は、会議の時だけ眼鏡をかけることがあった。私はその凛々しいお姿に憧れていたのだが、最近は全くかける素振りがない。残念である。