【117日目】Jの神話と染色体の日
私のかつての上司は、苗字の頭文字から「Jさん」という愛称で広く知られていた。Jさんは強面で体格も良いので、一見すると武闘派の怖い中年男性なのだが、本当は心根の優しいナイスミドルである。
私の現在の上司もかつてJさんのもとで働いていたのだが、時に優しく、時に厳しいJさんを尊敬している様子だった。本人は決して認めようとしないが、Jさんからメールが届くたびに喜ぶ姿は「片思い中の男子中学生」そのものである。実に微笑ましい。
しかしJさんとは職場が離れてしまったので、ここ最近の上司は心做しか寂しそうに見える。そこで上司想いの私は、彼の心の隙間を埋められるような本を探そうと思い立った。
ちょうど先週は実家に帰る用があったので、まずはかつて私が蒐集した蔵書を探してみる。「あ」のつく作家から順々に眺めていると、僅か数分で最適の1冊に行き当たった。乾くるみ先生の処女作『Jの神話』である。
2015年の『イニシエーション・ラブ』の実写映画化でその名を知らしめた乾くるみ先生だが、同作品以外にも良書が数多く存在する。この『Jの神話』も(個人的には)その1つで、例によって私の大好きな「メフィスト賞」の第4回受賞作である。
ジャンルとしてはミステリに分類されるが、いわゆる「本格」の作品とは異なり、伝記SF的な要素も数多く採り入れられている。ジャンルの枠組みを意識しつつも、それらを大胆に、そして奔放に逆手に取る手法は、「探偵小説研究会」の円堂都司昭氏からも絶賛の声が寄せられた。
そんな本作のキーワードとなるのが「性染色体」である。一般に知られる性決定様式において、正常な雌はXX個体、正常な雄はXY個体に分類される。旧約聖書におけるイヴはアダムの肋骨から創造されたが、実際に人間の身体のベースとなっているのはX染色体であり、Y染色体は睾丸決定遺伝子とされる。
つまり、通常であればYY個体という組み合わせは有り得ないはずなのだが、「その『有り得ない』が有り得たら?」という仮説が今作の大きな見どころとなっている。
……そんなあらすじと合わせて上司にこの本を紹介したところ、彼は驚愕した表情で呟いた。
「まさにJさんを書いた本じゃないか……」
私たちの崇拝するJさんは、確かに男らしさに溢れていた。溢れすぎて有り余るほどである。もし彼がYY個体の生命体だと学術的に解明されても、私と上司は一向に驚かないだろう。むしろ納得する。
そんなわけで、上司には『Jの神話』を貸し出すことを(一方的に)決めてしまった。私の文芸部創設という野望が、少しずつ現実へ近付いている。多分。
※追記1
ちなみに『Jの神話』の表紙には、英題として「J-GIRLS MYSTERY」と表記されている。私たちがよく知るJさんも、仲が良い女性のことを「J-GIRLS」と呼ぶことがあるので、やはりこの本はJさんがモデルに違いない。
※追記2
『イニシエーション・ラブ』は紛れも無く名作である。未読の方にはぜひお薦めしたい作品だが、心が弱い男性の方は注意した方が良いかも知れない。私は読後からしばらく人間不信に陥った。